10月3日 年間第27主日 マルコ10章2~16節  神は二人を結び続けてくださる

今日の福音は先週の続きの箇所です。イエスは弟子たちと受難に向かう旅を続けられます。その途中でファリサイ派の人々の問いかけを通して、結婚について教えられます。

いま、アフガニスタンのタリバン政権下における女性の権利が問題になっていますが、イエスの時代のユダヤ社会も男性中心の社会でした。家庭や社会では男性に従属する立場であり、パンを増やす奇跡の際にも人数に加えられていません。夫のいない女性は仕事も収入もなく、親類に頼るか娼婦のような仕事をせざるを得ませんでした。
そのような社会の中で、女性が離縁されることは厳しい立場に追いやられることでした。夫の都合で一方的に離縁されることも多く、女性のほうはそれに申し立てもできなかったのです。旧約聖書に「離縁状を書く」ように命じられているのは、「夫との縁が切れている」ことの証明として、せめて再婚できるようにとの配慮だったと言われています。
そこでイエスが「人は離してはならない=離縁してはならない」と言われたのは、女性の生活と人権を守る意味があったということができます。その上でイエスは結婚について、神が結ばれる神聖なものであると教えられます。
当然のことですが、わたしは結婚講座の際に教会では離婚が認められていないことを伝えます。しかしそれは、「離婚してはいけない」という禁止事項としてとらえるのではなく、「神は二人を結び合わせて祝福し、常に支えてくださるから、それに信頼して結婚生活を送る」ことなのだとお話しします。
三重県にいたときに結婚式で次のようなお話をしていました。「二見が浦の夫婦岩はしめ縄で結ばれています。でもときどき台風や高波で切れてしまいます。けれども夫婦岩は離れていきません。それは水中でつながっているからです。二人が荒波で手を離したとしても、離れてしまわないように、神が水中で結び続けてくださっているのです。」神の祝福と結びは結婚式限りのものではなく、結婚生活を送る間もずっと続いているのです。

最後の部分では、イエスが子どもを抱き上げて祝福される場面が出てきます。9月19日の福音と似ていますが、そこでは「子どもの一人を受け入れる者はわたしを受け入れる」とあるのに対し、ここでは「子どものように神の国を受け入れなければそこに入ることはできない」と表現が異なります。しかし、イエスが言いたかったことは同じことであったと思われます。子どもは何もできないと思われていた存在であり、弱い立場の人の代表です。前半で述べられている離縁される女性の立場ともつながるといえるでしょう。
「子どもの一人を受け入れる」とは、弱い立場の人の人権が尊重される社会を作っていくことであり、「子どものように神の国を受け入れる」とは、自分の弱さを認めて神に頼ることだといえます。神さまは弱い人の味方です。だからわたしたちは「弱いときにこそ強い(コリントの信徒への第二の手紙12章10節)」のです。      (柳本神父)