11月14日 年間第33主日 マルコ13章24~32節  神の国の言葉は滅びない

来週は王であるキリストの主日です。世の終わり(終末)にキリストがこの世に来られ、神の国が完成することを先取りして記念します。そのため、その前の主日の福音では終末に関する箇所が朗読されます。
マルコによる福音の13章は、イエスが世の終わりについて語られる内容となっています。14章では最後の晩さんが行われるので、イエスは宣教の最後に世の終わりについて語られたということになります。
今日のみことばは、オリーブ山でイエスが弟子たちに語られた内容です。神殿から出て行くとき、弟子の一人が神殿のすばらしさを讃えます。イエスはそれに対して、神殿が崩壊すること、次いで戦争や天変地異、迫害が起こることを予告されます。そしてその後に「人の子(イエス)」が栄光のうちに再び来るということを告げられます。

みなさんはもし、急流に落ちて流されたとしたら、何につかまるでしょうか。浮かんでいる木につかまれば一時的には安心ですが、結局一緒に流されてしまいます。ですから、流されることのない岩につかまることが必要です。
9月12日、年間第24主日の福音でイエスが最初の受難予告をされてからの主日の福音のテーマは「この世の価値観に対する神の国の教え」でした。わたしたちがこの世において求めるものは移り行くものであり、限りあるものです。それだけを頼りにしていると、流れる木につかまっているのと同じで一緒に流されてしまいます。しかし、イエスが伝えた神の国の教えは時代を超えて変わることのないものです。いわば、流れの中でゆるがない岩のようなものです。
この世を生きるわたしたちが、この世のものを大切にするのは当然のことです。この世で多くの人が求めているものは悪いものばかりではありませんし、生きるために必要なものも少なくありません。しかし、それだけに頼っているとそれが失われたときに生きる意味も失われてしまいます。お金を失ったとき、健康を失ったとき、地位や名誉を失ったときに絶望し、生きることをあきらめる人もいます。けれども、変わることのないものを頼りにしている人には希望があるのです。

イエスの言葉どおり、壮麗を誇った神殿は、紀元70年にローマ軍によって破壊されてしまいました。キリスト者たちは、いつ終わるともしれない迫害を受けることになりました。それはまさに世の終わりを思わせる出来事であったことでしょう。しかし彼らは、イエスの言葉に希望をいだき、神の国を待ち続けたのです。
コロナ禍といういつ終わるとも知れない苦しみの中にいるわたしたちも、移り行くこの世のものではなく、変わることのないイエスのみことばに希望を置き、神の国に向かって歩み続けていかねばなりません。                   (柳本神父)