11月22日・王であるキリスト マタイ25章31~46節 神の国を待ち望み、そのために生きる

今日は王であるキリストの主日で年間最後の主日です。一年間の典礼暦の最終週になります。典礼暦は救いの歴史を一年で記念するので、一年の最後は神の国の完成のときに、イエスが王として再び来られるという、世の終わりを想起します。
世の終わりというと「ノストラダムスの大予言」や映画「ハルマゲドン」などのせいで、恐ろしいイメージがあるかもしれませんが、イエスが始められた神の国がこの世に実現するのですから、これほどうれしいことはないはずですね。
でも、今日の福音のように「裁き」があるじゃないか、と思いますが、イエスはこの話を、いまこの世で生きるわたしたちの生き方として教えておられると考えられます。
では、今日の福音が示す生き方はどういうものでしょうか。

「水戸黄門」や謡曲の「鉢の木」の北条時頼のように、「実はあのときにもてなしてくれたのは私だったのだ」と、偉い人が恩返しをする物語はけっこうありますが、わたしたちが隣人に親切にするのは、あとで報いてもらうためではありません。今日の福音を聞いて、自分が裁かれないために困っている人に親切にしたとしても本当の愛だとはいえないでしょう。イエスご自身も喜んでくださらないと思います。
そこで大切な意味を持ってくるのが、今日の王であるキリストの主日にこの福音が読まれる、ということです。最初にも書いたように、今日は来るべき神に国の完成を思い起こす日です。福音の中で、王が「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言うのは、「神の国を受け継ぐ」ということです。マタイの福音はユダヤ人でキリストを信じるようになった人々に向けて書かれた、と言われているので、旧約聖書の教えが強調されています。おそらく、アダムとエバが造られたときにいた楽園のイメージが「天地創造の時から用意されていた」という表現になっているものと思われます。しかし、楽園とは死後の世界の天国の意味ではなく。「神と人がともに幸せに暮らしていた」本来の世界、つまり神の国のことを表しているのです。

神の国はイエスの福音によって伝えられました。そこは、貧しい人も富める人もなく、権力をふるう人も抑圧される人もなく、差別される人も病気や体の不自由さに苦しむ人もない、みんながともに喜ぶことのできる世界です。
今日の福音で王が人々を分けられているのは、神の国に入れるかどうかということよりも、神の国を受け入れるかどうかということを示しているのではないでしょうか。いまのわたしたちが、神の国のために生きるか、それともイエスの思いに反して自分たちだけの幸せを求めて生きるか、ということが問われているのです。10月25日の「第一の掟、第二の掟」のテーマと同様に、人を愛することが神に喜んでいただくことにつながります。それが、王の言う「わたしにしてくれたこと」なのです。          (柳本神父)