4月24日 復活節第二主日 ヨハネ20章19~31節 復活の主は時空を超えて来てくださる

復活節第二主日は白衣の主日と呼ばれます。復活祭の洗礼式で白い衣をいただいた人がこの日まで着ているという伝統に基づくものです。わたしは「びゃくえ」と読むと思っていましたが、それは仏教用語ですね(白衣観音とか)。教会でも「はくい」「びゃくい」「びゃくえ」と読み方はさまざまのようです。ヨハネ・パウロ二世はこの日を「神のいつくしみの主日」と定めました。イエスの死と復活によって示された神のいつくしみをほめたたえるためです。福音は毎年共通で、ヨハネの福音が朗読されます。

先週にも書きましたが、弟子たちにとって主イエスの復活を体験するのは、復活したイエスとの出会いを通してでした。それも、最初は信じられなかったのが、徐々に確信に変わっていきました。福音によると、様々な形で現れたということです。
今日の福音はそのうちの二つの出来事でした。前半は弟子たちが鍵をかけて家にこもっていたときの出来事です。イエスが処刑されたので、ユダヤ人(祭司や長老、「殺せ」と叫んだ人たち)が自分たちも捕えに来るかもしれないという恐れがあったからでしょう。そこにイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われます。恐れのうちにあった弟子たちに、イエスが平和をもたらされたのです。五旬祭の聖霊降臨の出来事によって弟子たちは迫害を恐れず宣教を始めますが、その変化はすでに復活されたイエスとの出会いから始まっているといえるでしょう。

後半はそのときにいなかったトマスがイエスと出会う出来事です。トマスは自分が会えなかったので、「決して信じない」と言い張りました。そのため、彼は「疑い深いトマス」という不名誉な呼び名をいただいているようです。しかし、わたしは彼の気持ちがわかるような気がします。だって、自分のいないときにイエスが現れて、ほかの弟子たちが喜んでいる姿をみたらそりゃあ悔しいでしょう。意地でも「見ないと信じない!」と言うのではないでしょうか。
幸い、トマスもイエスと会うことができました。「信じない者ではなく信じる者になりなさい」という言葉はトマスを叱っているようにも思えますが、その言葉の裏には「会えてうれしいよ」という気持ちが込められているように思います。そしてトマスは「わたしの主、わたしの神よ」というすばらしい信仰宣言をすることができたのです。

わたしたちにとっても復活されたイエスとの出会いはさまざまです。トマスのようになかなか出会えないこともあるかもしれません。鍵をかけて閉じこもっている弟子たちの姿には、コロナ下での「巣ごもり生活」を重ね合わせることもできるでしょう。さまざまな事情で教会に行けない方もおられます。けれども、復活のイエスは時と場所を超えた存在です。教会に行けなくても、イエスのほうから会いに来てくださるのです。(柳本神父)