5月1日 復活節第三主日 ヨハネ21章1~19節 復活のイエスはそばに立っておられる

先週に続いて今日も弟子たちと復活されたイエスとの出会いです。今日はティベリアス湖(ガリラヤ湖)の湖岸にイエスが現れる場面です。
このとき、イエスの指示によって獲れなかった魚が獲れるようになった「不思議な大漁」が起こるのですが、同じような出来事はルカ5章1~11節にも出てきます。ただしこちらはイエスが初めて弟子を招く場面です。復活前と復活後に同じ出来事があったのか、一つの出来事がそれぞれの福音で別の場所に置かれたのかは定かではありませんが、いずれにしても弟子たちにとってはそれがイエスとの出会いの場面であったということです。

前回にも書いたとおり、弟子たちにとってイエスの復活を体験することは、復活のイエスと出会うことでした。今日の福音はまさにその出会いでした。ルカの福音では初めての出会いでしたが、ヨハネの福音では復活されたイエスとの出会いであったのです。
そしてイエスは漁のあとペトロに「わたしに従いなさい」と言われます。ペトロはすでにイエスに従っていたのですが、イエスの裁判のときに弟子であることを三度否定します。ということは、彼はいったんイエスのもとを離れてしまったことになります。しかし、復活のイエスは彼をもう一度弟子に招かれたというわけです。
イエスを裏切ったのはユダだけではありません。ペトロもそうです。ほかの弟子たちも逃げてしまいました。何より、イエスがあれほど強調されていた復活を、彼らは信じていなかったわけです。けれども、イエスは彼らを赦し、ふたたび弟子として招かれました。そう、イエスの復活は弟子たちにとっても復活であったということです。

復活のイエスが現れたとき、マグダラのマリアや弟子たちはイエスと気づかなかったといいます。マグダラのマリアは園丁だと思ったようですし、エマオへ向かう弟子たちも一緒に話しながら歩いていたのに気づきませんでした。今日の福音もそうでした。
以前、三重県にいたときのことです。修道院でのミサの後の食事でご年配のシスターが「どうしてイエスさまだと気づかなかったのでしょうね」と聞かれたので困った私は「ひげ剃ってたんじゃないですか?」と答えました。もちろん冗談ですが、その後、「気づかなかった」ということは意味があるのではないかと思うようになりました。というのは、弟子たちもそうでしたが、わたしたちにとってもイエスがそこにおられるのに気づかないことがあるからです。
信仰生活に限らず、毎日の生活の中で、いろいろな場面でイエスとの出会いが用意されています。けれども、さまざまな思い煩いや忙しさの中でそれに気づかないことがあります。そんなとき、復活のイエスはそばに立ってにこにこと笑ってらっしゃることでしょう。
わたしたちがイエスの復活を記念することは、復活のイエスと出会うことでもあります。そしてわたしたちにも「わたしに従いなさい」と呼びかけられるのです。 (柳本神父)