5月22日 復活節第六主日 ヨハネ14章23~29節 聖霊は出会いと証しを用意してくださる

来週は主の昇天の祭日です。そのあと、聖霊降臨を祝うため、今日の福音は聖霊降臨を予告する内容となっています。本来、主の昇天は復活節第六木曜日なのですが、日本のような非キリスト教国では復活節第七主日に移して祝われます。そのため、今日は復活節第七主日の福音(ヨハネ17章20~26節)を読んでもよいことになっています。ここでは「聖書と典礼」に載せられている第六主日の福音を取り上げます。

今日の福音はイエスが弟子たちに聖霊降臨の予告をされる内容で、先週の福音と同じく最後の晩さんの際に語られた長い説教の一部です。ここでヨハネは聖霊のことを「弁護者」と呼んでいます。「弁護者」は原文では「パラクレートス」で、法廷で弁護する人のことです。要するに弁護士、弁護人ですね。弁護士は法律的知識をもって、法廷などの場で依頼人に代わって主張する専門家です。わたしも弁護士の先生に相談をしたことがありますが(わたしが訴えられたわけではありませんが)、ほんとうに弁護士さんの専門知識には感心します。「専門家とはこのような人のことを言うのか」と思います。
ではどうして聖霊が弁護者なのでしょうか。弁護者が法廷や裁判で守ってくれる存在であるとすれば、迫害が起こって訴えられたときの弁護者、つまり「助け主」だということです。たしかに、この説教の続きである15章18節以下において、イエスは聖霊を迫害のときに証ししてくださる方だと言われています。しかし、証しが必要なのは裁判のときだけではありません。何よりも宣教自体がキリストを証しすることです。
弟子たちの宣教というと五旬祭の聖霊降臨から始まったように思いますが、実はイエスはそれ以前に弟子たちを派遣されています(マタイ10章5節ほか)。そのときイエスは彼らに「何も持っていくな」と言われています。ということは、旅先では人々の世話にならなければならない、ということです。これはとても不安なことです。一文無しですから、受け入れてくれる人がいなければ飢え死にするかもしれません。けれども、あえてイエスがそのように言われたのは、彼らの証しが人々にとって喜びの言葉であり、それを求めている人との出会いが必ずあることを知っておられたからではないでしょうか。それらを用意されているのが聖霊であるといえるのだと思います。まさに、その意味でも聖霊は「助け主」である方なのです。

宣教は弟子たちだけに委ねられたものではありません。わたしたちも弟子のあとに続く者として、宣教に派遣されています。とはいっても一軒一軒を訪ねて「信者になりなさい!」と言って回ることではありません。わたしたちの日常生活の中に聖霊が用意してくださっている出会いがあります。外に出られなくても、テレビで知った苦しみを受けている人々の状況に心を痛める、これも出会いの一つです。それらのときにキリストを証しする行いができるように、弁護者である聖霊が働いてくださるのです。   (柳本神父)