5月30日 三位一体 マタイ28章16~20節  三位一体の神秘はともにいてくださるしるし

先週の聖霊降臨で復活節は終了し、二回目の年間に入りました。聖霊降臨で出そろったからというわけでもないでしょうが、今週は父、子、聖霊の三位一体を記念します。今日の福音の箇所はマタイの福音書の結びの部分です。
なぜこの箇所が選ばれているかというと、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」というイエスの言葉があるからです。意外なことに、聖書の中で「父と子と聖霊」という表現はこの箇所だけなのです。おそらく、イエスご自身がおっしゃったというよりも、福音書が書かれた時代の洗礼の言葉が反映されていると思われますが、古くから現在と同じ洗礼の言葉が用いられていたことがわかります。

四つの福音書の結びはいずれも弟子たちの派遣を表す内容となっています。その中で洗礼について語られているのは今日のマタイと、5月9日の主の昇天の祭日に読まれたマルコの福音です。これらは、「信者を増やしなさい」というよりも、「福音を求めている人に告げ知らせなさい」というような意味だと考えられます。
マタイの福音は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」というイエスの約束の言葉で結ばれています。マタイ1章23節に「インマヌエル(神はわれわれとともにおられる)」という言葉が出てくるので、マタイの福音書のテーマは「ともにいる神」であるということができます。
 では、何のためにともにいてくださるのでしょうか。それはもちろん、わたしたちが日々神の愛に生き、そして神の国の福音を伝えるためにはげまし、助けるためです。

この「父と子と聖霊」の三位一体の関係は、わたしたちには理解するのがむつかしいですね。わたしもミサの説教で、父=目的地・港、子=船の水先案内人、聖霊=船を進める風という説明などを試みてきましたが、大切なことは三位一体の関係を理解することではありません。ではなぜ理解しがたいかというと、自分もその中に巻き込まれているからです。わたしたちと離れたところに三位一体の神がおられるのではなく、わたしたちも三位一体の神に包まれているので、理解する必要はないのかもしれません。
つまり、三位一体の神秘は「ともにいてくださるための神秘」であるということができます。わたしは先々週の主の昇天、先週の聖霊降臨と今週の三週続けてマタイの福音の「あなたがたとともにいる」というイエスの言葉を引用してきました。これらの出来事は、主の復活も含めて、「三位一体の神がわたしたちとともにいてくださる」ためのプロセスであったということです。
コロナがなかなか終息しない今、わたしたちは神がともにいてくださることを強く求めています。でも求める前から三位一体の神はともにいてくださるのです。 (柳本神父)