7月18日 年間第16主日 マルコ6章30~34節  深く憐れんでくださる飼い主イエス

マルコの福音書では、先週に読まれた弟子たちの派遣のあと、洗礼者ヨハネが殺される話(6章14~29節)が挿入されています。ですから、今日の福音は内容的には先週の福音の続きです。そこで、派遣された弟子たちが帰ってきて報告する所から始まります。何も持たずに出かけた彼らは、旅先で受け入れ先を見出し、どうにか宣教の使命を果たすことができたようです。彼らは旅の疲れをいやせる状況ではなかったので、イエスは弟子たちと舟で人里離れたところに向かいますが、人々は陸上を先回りして待ち構えるのです。

イエスは人々が「飼い主のいない羊のような有様を見て深く憐れみ」教え始められます。本来ならば祭司や律法学者たちが「飼い主」の役目であるはずです。けれども、彼らは律法を厳しく守ることを要求しました。律法を守る余裕もない貧しい人々や、律法に反して罪人とされていた人々、身体の不自由な人々、集会に参加できない女性など、多くの人々は「飼い主のいない」状態でした。
羊飼いは羊の群れを一つにまとめ、牧草地に連れ出し、野獣から守り、ねぐらに導きます。「飼い主のいない羊」のような人々は、食べ物も与えられず、悪い者から守られない、ばらばらに放置された状態でした。イエスがカナンの女性に「わたしはイスラエルの失われた羊のためにしか遣わされていない」と言われる箇所がありますが、宣教に入る前から、イスラエルの民でありながら放置され、見捨てられている人々を見ていたイエスは、まずそれらの人々に神のことばを伝えたい、という思いがあったのでしょう。
イエスは「深く憐れみ」、いろいろと教え始められたのですが、この「深く憐れむ」という言葉は、心が揺さぶられるような深い共感を表しています。このことは、イエスがまさに一人の人間としてこの世で生きてこられたことを表しています。人間であるからこそ、「自分が同じ立場だったらどんなに不安だろう」と考え、共感してくださることができたのではないでしょうか。たしかにイエスは神の子ですが、この世においては同じ人間として人々とかかわってくださったのです。

この文章を読んでくださっている方は、イエスが飼い主であることを知っておられるはずです。それでもときには不安に陥り、ときには神の思いに逆らってしまい、羊の群れから離れてしまったと思うときもあるでしょう。とくに新型コロナの終息がまだ見通せない現在、秘跡からも遠ざけられ、仲間とのかかわりが制限されて、孤独のうちに不安な日々を送っておられる方も多いかと思います。しかしイエスは人間として生きた方ですから、わたしたちの置かれている状況を「深く憐れみ」、助けてくださる飼い主なのです。
新型コロナの流行は大きな苦しみですが、飼い主イエスへの信頼を新たにする機会でもあります。このようなときこそ、イエスの憐れみを求めるとともに、孤独と不安のうちにいる人々に、「飼い主イエスの憐れみ」を分かち合うことが大切です。  (柳本神父)